Friday, February 3, 2017

『精神の鏡、知識の地図』の和訳について

コリングウッドの『精神の鏡、知識の地図』を訳して1年あまりが経った。訳が完了した直後は、もうこの作品は二度と読む必要がないだろうといううんざり感と、コリングウッドの原文に比べ自分の訳文はなんて稚拙なんだろう、なんて下手なんだろうという劣等感を感じていた。

しかし、今日、ひょんなことで久しぶりに「プロローグ」と「科学」の章を読み返してみると、「そこまで悪くないじゃん」という気持ちが湧きあがってきた。こんなことは滅多に起こらない―というより、自分の訳文が優れていると感じたのは恐らくこれが初めてのことだ。良い仕事ができたと感じることができて素直に嬉しい。

思うに、私が知る限り、コリングウッドは哲学史上随一の名文家である。『精神の鏡』の日本語版は、たしかに他の哲学書と比べて格段に読みやすいかもしれないが、残念ながらコリングウッドの流れるような英語原文にはまだまだ到底及ばない。

哲学が日本語に訳された途端にちんぷんかんぷんになってしまうのには歴史的な理由がある。これは相当乗り越えるのが難しい理由で、ちんぷんかんぷんな哲学和訳書を世に出してしまったあまたの翻訳家たちは、何もわざとわかりにくい言葉を並べて読者を苦しめようとしているわけではないのである。どんなに善意をこめて訳をしても、よほどの労力と時間を訳につぎ込まない限り、哲学書というのは自然な日本語文に容易には訳し得ない。

もともと、西洋哲学は開国と同時期に日本に入ってきた。当時の日本の学者たちは、日本の仏教由来のものを「思想」と呼び、西洋から来たものである「哲学」と厳密に区別した。これは恣意的な判断ではなく、政治的な判断であった―つまり、当時の日本の政府は、意図的に日本の伝統と西洋の伝統とを区別するよう学者たちに指示を出したのであった。

それ以来、日本の「思想」における言葉遣いと、西洋の「哲学」における日本語との間には大きな溝が生まれ、この溝は時が経つにつれてどんどん深まっていった。つまり、時が経つにつれて、学者たちはより多くの西洋哲学書を訳すためにより多くの造語を開発し、原著を読んで理解した人にしか理解しえないような言葉に依存するようになったのである。

現在、日本の「思想・哲学」界では、二つの立場がある。

1.片一方では、「日本語の哲学」を、つまり「自然な日本語」に本来内蔵されている概念を生かした哲学が主流となるべきだ、という考え方である。これは、たとえば「もの」や「こと」、「もののあはれ」や「わびさび」、「いき」といった言葉を主軸にした考察を指す。この立場には明らかに多くの問題が存在するが、少なくともこの立場をとる人は自分が日本語哲学主義者であるということを明示する場合がほとんどなので、ある意味話が進みやすい。

2.もう一方では、「哲学は西洋のものなのだから、和訳ではなく原著を読んで勉強するしかない」という立場がある。 これは厄介な立場である。というのも、自分は非日本語主義であると堂々と宣言する学者や批評家はほとんどいないからである。しかし、かれらの語りぶりや、論の進め方、また文体などをすべてまとめて眺めてみると、なるほどこの人は非日本語主義者で、はっきりと言ってはいなくても、哲学はドイツ語や英語、フランス語やギリシア語の原著を読んで勉強すべきなのだとこの人は信じているんだな、ということが明確になることがしばしばある。

この二つの立場をどちらも批判的に捉えなおして、第三の立場に進むのが肝心だと私は思う。

3.一方で、哲学は西洋のものであり、日本語に自然に内蔵しているものではない、ということはしっかりと認めよう。しかし、だからといって、西洋の言語だけが哲学にふさわしいなどという思い込みは捨てよう。そもそも、デカルトやヘーゲルだって、フランス語やラテン語、ドイツ語などに「自然に」内蔵された思想などというものは拒絶していた。近代哲学は懐疑を基礎として成り立っている―だとすると、己の母語が「自然に」己の考えを導くのだという状態は、哲学者にとっては我慢ならないものであるべきであろう。

母語のもつ「自然な」思想の流れに逆らいつつ、しかし万人が理解できるようなわかりやすくて滑らかな文章で哲学を展開することはできないものか―そう問いを立ててみると、日本語の場合特に、哲学書の和訳という分野が一つの戦場となる。つまり、内容的には普遍的な西洋哲学思想を、歴史上明らかに反哲学的になるよう仕向けられてきた言語である日本語で表現するのが翻訳家の仕事だからである。

始めに戻って、コリングウッドを訳してみて思うのは、特に『精神の鏡、知識の地図』では、日本語として無理のない形で西洋哲学思想をしっかり展開することができたという点である。なるほど、自画自賛にしか聞こえないかもしれないが、しかし良いものは良いと言うのが一番である。本書は哲学への入り口として優れた作品なので、哲学に興味のある方には、解説書ではなくこのような本物の哲学作品をぜひじっくり読んでいただきたいと思う。