Monday, March 14, 2016

「ある」と「いる」―日本語で論理学

もし日本語で論理学を書くとしたら、始まりが「ある」で終わりが「いる」であるような作品になるかもしれない。というのも、文法的「ある」は非生物、「いる」は生物の存在を表すが、論理学も死んだカテゴリーとしての思想の中継地点を通して最終的に生きた結論へと到達するのだから―そして、こうして到達される結論は、出発点とある意味同一でなければ本当の意味では結論とはいえない。英語ではどちらもBeで訳されてしまうが、日本語では始まりと終わりを区別することができる。

英語やドイツ語よりも細かい区別がつく場合は、日本語で論理学を書くメリットはわかりやすい。反対に、日本語には訳せない言葉が出たときは、「ほらみろ、日本語では哲学が成り立たないのだ」と言い放つ人も出てくる。

しかし、これはやや早まった結論である。むしろ、日本語に訳せない言葉があるという点にも日本語の強みを発見しなければいけないのではないか。

例えば、「理性」という言葉は、ReasonやVernunftを完璧に訳しているとは言い難い。ここで「理性」をReasonやVernunftを示す印として用いてしまってもよいが、より良い道がある。Reasonを訳そうと苦悩する中で出てくる候補を使ってやるのである。すると、「理性」の他に「理由」「説得」「交渉」「論法」など、色々な言葉が出てくる。これらすべてを使って「理性論」を紡ぐのはどうだろうか。

同じ点を異なる言葉で言い換えながらじっくりと論を進めるというスタイルは、現代哲学ではあまりよしとされていない。しかし、シェリングやヘーゲルはこうしたスタイルを得意とし、現にこうしたスタイルでなければ表現できないような議論を行った。特に大切なのは、言い換えを通して、読者の注意を言葉から逸らし、議論そのものへと向けることである。同じ言葉の反復は、言葉への執着を生み、哲学としてはふさわしくない読書法を奨励してしまう可能性もある。

というわけで、日本語で論理学を書く面白さやメリットは、訳せない言葉を訳そうと四苦八苦する中で生じる訳語の切れ端をかき集めることによって成立していくのかもしれない、と思う。